「週刊読書人」での文芸時評も四月号。三分の一が過ぎた。いまだに小説の読み方がよくわからない。まあたらしい作品群に触れれば触れるほどに、わからなくなっていくというような気がする。それでいて、自分にとって小説とはこういうものであってほしいのだなという偏食っぷりがどんどん露わになっていくようでもある。
文芸誌というのは前衛なのだと思っていた。そこに掲載されている現代の小説というのは、なにか文章表現のフロンティアを切り拓くようなものたちなのであると。そのような思い込みをいまだに捨て去ることもできない。
話が上手な人というものに不信感をもつからこそ小説を読むのではないか。そのような思いが強くある。
とにかくプロットで読ませるものが苦手だ。この先どんな展開が待っているのだろうという好奇心で読まされるのが苦痛だ。ただ文章を味わい、鑑賞し、はしゃぎたい。次にどんな一文がやってくるかわからない、というような驚きにわくわくしていたい。
話の筋を取り出しても仕方がない。それは音楽を聴かずに歌詞カードだけで楽しむようなことだから。小説を読むのであれば一文一文を吟味するものだし、要約を寄せ付けないディティールに惹きつけられるのが楽しいのである。時評に書くという前提で読むとこのような気分が際立つ。というか、時評に書きやすそうだなと思うような小説は総じてつまらなく思えてくる。それらしい評論を書くのなんて簡単で、書きやすいような小説はあらすじを上手に抽出して、構造化し、その構造が選択された社会的な意味を絵解きするだけでずいぶん面白くなる。なんなら説明の方が面白くなるようなことも多い。それなら説明だけ読めばいいのだから小説は不要だ。あるいは、小説は実在しない小説の批評のようなものとして書かれた方がずっといい。あらすじと今日的意義だけを並べるだけで何か言った気になれて、読んだ方もなるほど今はこういう時代なんだなと一定の納得ができるような評を誘惑するような小説は面白くない。そんな、そこそこ賢しければ誰でも書けるような評を書いても楽しくない。こちらに媚びないでいただきたい。なんなんだこれは、と絶句するようなものを読みたくてしかたがない。そうしたものと格闘して捻り出す不細工な評をこそ書かせてほしい。だから、見え透いたものに感じられるとぶすっとむくれてしまう。言葉で作るものだからこそ、安易に別の言葉に変換できるような単純なものであってほしくない。
そんな不満を燻らせながら、先月単行本が出た町屋良平『生きる演技』(河出書房新社)を読んで、昨年はこれが文芸誌に載っていたのだとすこし明るい気持ちになる。このような作品との遭遇が待ち遠しい。今月はこの作品の冒頭部分を読み込んでみることで時評のB面としたい。僕はこのようにして小説を楽しみたいのだというひとつの実演として。
B面(4月)
暗闇の解像度を上げると光った。かれは午前四時の公園にいる。あたりは暗く、視覚だけでは捉えきれない場を感じる。景色が五感に混ざっていく。土の匂いや風の音で風景をかきわけ、さわる樹皮の感覚で補う視界はまるく、重々しい塊のような世界が迫ってくる。それでようやくあらわれる枝葉の様子をその身で捉えると、視力が増していくかのように暗さに慣れる五感が下方へと繋がっていき、ふくらみを帯びた幹に裂ける皮のさかいから新芽がこぼれるのを光が満ちる前にたしかに見た。
これが『生きる演技』の書き出しである。はじめの一段落を抜書きした。六つの文で構成されている。一文目「暗闇の解像度を上げると光った」からすでに難解である。解像度というのは画像を構成する画素の密度のことだそうだ。暗闇の画素数を上げるというのは、カメラの調整の話だろうか。暗闇を構成する色彩の粒を細かくしていくと光るのだという。これはレンズの感度を上げるというようなことなのだろうか。カメラの操作に詳しいわけではないからよくわからない。何の解像度を上げたのか? 上げるという操作は誰が行ったのか? 光ったものとはなんなのか? これはカメラに詳しくても解けない謎だろう。疑問は尽きないが、一旦おいて次の文を見よう。
未明の公園に「かれ」がいるのだという。この小説は三人称で語られていくようだが、語りの主体はいまだはっきりしない。はじめの一文の主語が不明瞭であることで、行為主体をはっきりと同定できない感覚は強められている。足場の定まらない不安定さは、おそらく「かれ」とひらかれていることにも起因している。三つ目の文の「視覚」はおそらく「かれ」のものなのだろうが、確信は持てない。この小説の語り手が「かれ」を描写する第三者に設定されていた場合、「かれ」に内在的な感覚器官にアクセスできるような万能を有しているとは考えにくいからだ。四つ目の文「景色が五感に混ざっていく」までくると、小説の語りの視点を見定めることの困難はいよいよ極まってくる。「かれ」のものであろうと頼りなげに仮定した「視覚」はのこりの「五感」ともども「景色」に融解してしまったのだから。
つづく五文目と六文目は長い。ここまでの比較的短く、それでいて落ちつきどころの見出せない文のあとに「土の匂いや風の音で風景をかきわけ、さわる樹皮の感覚で補う視界はまるく、重々しい塊のような世界が迫ってくる」がくると、とうとう主語だけでなく述語の意味さえも覚束なくなってくる。まず第一の句点の前までを見る。不明瞭な主語は「土の匂いや風の音」を手がかりにして「風景をかきわけ」ている。触覚や聴覚といった「五感」を利用して「景色」へと「混ざっていく」という事態が繰り返されているのだとも読める。そのように考えていくと、「さわる樹皮の感覚で補う視界はまるく」も触知した「景色」が視覚的なものへと補正されることで、諸感覚が混濁していく状況を表現しているように思えてくる。五感と環境とが相互にもつれあった主客の混濁は、「重々しい塊のような世界」として目の前に迫り出してくるだろう。
はじめに「暗闇」から始まるこの段落は「見た」で終わる。視覚だけでは捉えきれなかった「景色」を見るための一連の準備として、この段落はある。嗅覚や聴覚、触覚を総動員して、あるいは感覚を環境の側へと混ぜ込むようにして「枝葉の様子」は「ようやくあらわれる」。このような注意を経て、「五感」は「暗さ」に適応し、朝日が昇る前に公園の木の「幹に裂ける皮のさかいから新芽がこぼれる」ようすを「たしかに見た」のだ。「暗闇の解像度を上げると光った」という謎めいた第一文の内容がここで朧げながらわかる。これはつまり、未明の公園で、視覚だけではとらえきれない運動を全感覚を世界と接続することで可能にする注意の準備とその結果を表す一文であったのだと。
ここまでの、すんなりとは読み下せない一段落を読み終える時、読者はすでにこの作品世界を視覚=文字を追う目だけではなく、あらゆる感覚を総動員し、客観的記述にも主観的記述にも振り切れない不安定な状態を維持したまま、不可知のものへと体を傾ける準備運動を終えている。それは、演技のための準備であったことが続く段落で明らかになるだろう。演技とは、この小説を全身で読むことの謂でもある。
読み進めていくうちに、この行為主体の定まらない語りの主体がどこに措定されるのかも示されることになる。作品世界と一体化すること。自他の区別を撹乱すること。そのようなものとして小説は演技する。ここでは演技とは、小説だけが行うものではない。書き手が指揮するものでもない。『生きる演技』は読者をも巻き込んで、印字された文字列に、五感を頼りにして分け入っていく鋭意をこそ演技として提示するのだ。その準備はある程度整った。あとは各自つづけていくのがよいだろう。