文芸時評のB面 二月
今月もやってるよ
今月も文芸誌各誌の二月号を読んで時評を書きました。本日発売の「週刊読書人」に載ってます。大雑把に概観すると、今月はあまり楽しめなかったものも多かった。だからこの端切れ部分の大半は文句だ。
写真は昨晩観戦したFREEDOMS の興行、後楽園ホール最前列からの景色。リングの周りに敷かれた黒シートの上には、蛍光灯の破片、血痕、薔薇の花びらが散乱していく。年始に連れて行ってもらってすっかりプロレスにハマっている。俄か友達が欲しいので、興味がある方がいたら一緒に行ってみましょう。
B面(2月)
『文藝』のプロテイン文学特集に寄せられた小説群では、自身であるはずの体がどれもこれも他人のようにして感覚されているようなのが面白かった。円城塔「植物性ジャーキー事件」は着脱可能な道具として扱われ、児玉雨子「跳べないならせめて立て」では過去から貫徹する意志を持つ筋肉の記憶が中心に据えられる。石田夏穂「ヘルスモニター」は前月『すばる』掲載「世紀の善人」の変奏のような掌編で、前月に続き手癖で書いている印象を抱いた。季龍徳「反男性」も、露悪に徹しきるわけでもなく、テーマを逸脱する余剰もなく、いまひとつだった。特集は総じて突き抜けたものがなく、現実の感受の仕方を刷新するようなリアリティに乏しい。特集外の掌編いとうせいこう「東北モノローグ 福島 a folklorist」が提示する他者の死とともにある生の声の前にはちんけであったという印象を持った。
当事者性がひとつの切実な題材となるのであれば、作家の想像力はむしろ他者の当事者性に向かわなければならない。王谷晶「蜜のながれ」は特集内の季龍徳「反男性」と同じく、文学の場において(も)現在もっとも責任主体としての当事者性を厳しく問われているはずの中年男性を視点人物に据えているが、想像の踏み込みが足りず、人物造形がステレオタイプの域を出ないものであると感じた。誰かを救うわけでも糾弾するわけでもない、世情のこなれた要約のようだった。長井短「存在よ!」は目次にすでに「シスターフッド」ものであると銘打たれている。スタンドインの売れないモデルと幽霊の連帯の物語だ。ふたりは見えないものとされてきた女性たちとして「うらめしや」ではない表出の方途を探る。序盤のぎこちない三人称への違和が晴れる瞬間の技巧的面白さはあったが、素材もプロットも説明過多で驚きには乏しい。半分の枚数で切れ味よくまとめたほうがよかった。
同じく『文藝』掲載の羽田圭介「バックミラー」は鑑賞される側とする側の、一見非対称なようでその実とても相互依存的な関係を、バンドマンとストーカーという二者に託しつつ描く。どれだけ非対称に見えても人間関係は常に転倒の予感に満ちているということを巧みに示す短編。滝口悠生「音楽」はほんの掌編であるが、他者の身体との喜ばしい呼応と遠くの痛みへのうっすらとした共感が込められている。
高瀬隼子「新しい恋愛」(『群像』)は、「マッチング」という人間関係の養殖が一般化した地点から、反動的に表れるであろう「ロマンチック」な天然志向を描く。いまだ根強いロマンティックラブ・イデオロギーへの痛烈な皮肉に満ちている。岡本学「X/Y-Z」は二つのゲームの開発者と、それぞれのゲームのほぼ唯一のプレイヤー二名との三つ巴の構造をデッサンする。三体問題を彷彿とさせる設定から精巧なシミュレーション小説を期待したが、三項を立てておきながら平面的な処理に終始しており、立体として現れてこない簡素さが物足りなかった。川野芽生「兄の帰還」は、三者の声の虚しい響きが擦れ違う会話文の表現がよかったが、ディストピアSF としては陳腐。足腰の弱い設定であれば、あえて説明しきらないほうがいい。
『新潮』では崔実「ビッグバン」が印象に残った。もっと長いものを読みたい。柴田元幸翻訳のブライアン・ワシントン「ロックウッド/610北、610西」もよかった。この文体を日本語でいきなり書けないのはなぜか。ここには一人称の広がりがある。「ぼく」という一人称が「私」のアイデンティティへ自閉することなく、その「私」の存律構造のほうへとまなざしをひらいている。一人称でありながら、語り手の位置を人種や街やジェンダーに明け渡しているのだ。
『文學界』の千葉雅也「幅が広い踏切」では、この作家の持ち味である、稚気を帯びた語彙の選定と、そっけなさすら感じるドライな配置が光る。天ぷらそばの海老、鉄道模型、踏切、台風。端正に並べられた複数の線と移動のイメージ。要素間の関係が有機的な運動として機能する構造物として楽しんだ。
創作面で今月もっとも満足感があったのは『すばる』だった。古川真人「鳶」は、親類の集まり特有のわちゃわちゃとした発話の錯そうを活写している。噛み合っているようでめいめい好き勝手喋っている騒がしさと、ふいに並走する過去の情景。時制の混濁は、そのまま混線する会話と相似を為す。日常会話の複雑さを混乱なく読ませる端正さがある。
水村美苗「Red No.28」。七十歳の語り手が、タイトルにもある秋の落ち葉と同じ色の口紅のぐるりで動く。上品な赤を帯びた落ち葉はすぐさま黒く腐っていく。人に尽くしてきた人生は「社会性のない尽くしかた」だったのか。社会からの距離を痛みのように抱えたシルバー人材センターの友人とのささやかな交流から、自身の引いた「貧乏くじ」を静かに受け入れる。庭の手入れとケアが重ね合わされる
「ミョンスンとキジュン」の金石範は九十八歳だという。台本のト書きのような物切れの記述が、なぜか素朴なサラン(愛)の寓話として映像的に立ち上がる。饒舌だけが豊かなのではない。言語以前を予感させるナラティブの凄みを感じた。
椎名誠「機械牛と鳥人間との旅」。こちらは七十九歳。金石範作品に抱いたエイジズムとも未知の境地へのオリエンタリズムともつかない評者の偏見は、明快な活劇を描く危なげない筆致によって横面はたかれた。猥雑な土埃のにおい立つ世界観が愉快だ。殺伐としているようでどうにも妙な剽軽さをたたえた紀行文を模した大法螺が楽しい。
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以上は端切れです。よりよい部分を時評の形に仕立てたものが「週刊読書人」で読めます。データ版もあり。販売ページはこちら。 → https://jinnet.dokushojin.com/products/3526-2024_02_09_pdf

